かつて、ハリウッドを筆頭に一世を風靡した西部劇。
「シェーン」や「真昼の決闘」など、数え上げたらきりがないほど傑作が揃っている。
しかし、私が最も魅せられた西部劇といえば、「荒野の七人」を置いてほかにないだろう。
本映画は巨匠・黒澤明監督の「七人の侍」のオマージュともいうべき作品である。
それもそのはず、ユル・ブリンナーが「七人の侍」に感銘を受け、「大脱走」を手掛けたジョン・スタージェスを監督に迎えて制作したのである。
作品の魅力
この作品の魅力は主に2点ある。
一つは出演俳優の豪華さだ。
とはいえ、メインとなる七人のガンマンのうち、公開時にビッグネームと呼べたのはユル・ブリンナーひとりと言っても過言ではなかった。
だが、本作をステップに、スティーブ・マックイーン、チャールズ・ブロンソン、ジェームズ・コバーンなどが映画史に名を残す名優として活躍した。
そして、二つ目はテーマ曲の秀逸さである。
私が知る限り、西部劇でこれを超えるものを聴いたことがない。
なんというか、勇壮なリズムに血沸き肉躍り、雄大でスケールの大きさを感じさせる世界観は、まさに「荒野の七人」にピッタリである。
中学生のとき、私は初めて鑑賞したのだが、映画には名曲の存在が欠かせないと痛感させられた。
このテーマソング=「荒野の七人」といっても過言ではないほど、不可分一体となっている。
ストーリー
そこはメキシコの寒村イズトラカン。
毎年、収穫期が来ると盗賊団が現れ、作物を強奪していった。
そんな中、ついに村人のひとりが銃殺されてしまう。
長老の助言もあり、ついに戦うことを決意する村人たち。
国境付近の町まで銃を調達しに向かう。
そこで、ひょんなことから凄腕の拳銃使いクリスと出会った。
事情を説明すると、用心棒を引き受けてくれるという。
クリスは盗賊団を迎え撃つため、腕に覚えるのあるガンマンたちを求め奔走する。
こうして、わずか20ドルの報酬で七人のガンマンたちは立ち上がるのだった。
思い出のガンマンたち
スティーブ・マックイーン演じる準主役にして、情に厚い早撃ちのヴィン。
ベストを纏った洒落た出で立ちが特徴で、死の恐怖に苛まれながらも“自分自身に借りを返すため”村人を救ったリー。
今わの際まで大金を夢見ながら、永遠の眠りについたハリー。
最後まで生き残り、農民として愛する者と生きることを選んだチコ。
何とも個性的なガンマンたちである。
しかし、私には彼ら以上に思い出に残るガンマンがいる。
エピソードとともに紹介する。
クリス
リーダーのクリス。
「王様と私」で有名なユル・ブリンナーが演じた。
スキンヘッドに被るカウボーイハットが良く似合い、鋭い眼光は猛禽類を思わせる。
そんな彼は義侠心を携えた、困っている人を見ると助けずにはいられないナイスガイである。
彼の男気は登場するやいなや発揮される。
通りすがりの商人が善意で、道で亡くなった先住民を埋葬しようとしていた。
だが、その町の住人は先住民の埋葬を快く思わない。
それどころか、葬儀馬車で遺体を運ぼうにも銃撃されるため、御者のなり手がいなかった。
そんな中、御者に申し出たのがクリスだったのだ。
そして、クリスの義侠心に心打たれたヴィンとともに、墓地まで馬車を走らせた。
ふたりは銃撃を浴びながらも、電光石火の銃捌きで退ける。
馬車を走らせる前、クリスはマッチで葉巻に火をつける。
そのしぐさが何ともイカしており、思わず痺れてしまう。
これから死地に赴くというのに不安や恐れを微塵にも見せず、葉巻をくゆらせるクリスの胆力。
凄腕の七人のリーダーたる圧倒的な存在感と佇まい。
まさに任侠、これぞ武士(もののふ)と呼ぶべきガンマン、それがクリスなのである。
ベルナルド・オライリー
男臭い、哀愁漂う演技をさせたら折り紙付きのチャールズ・ブロンソン。
その彼が、決して愛想はよくないが心温かきベルナルド・オライリーを好演する。
オライリーは薪割りの仕事で糊口を凌いでいた折、クリスに誘われた。
優しい人柄が、ときに子どもたちへの温かい眼差しに現れる。
そんな姿が村の子どもたちに好かれる所以だろう。
オライリーの優しさが滲み出た場面がある。
ガンマンたちが、肉料理を筆頭に豪華なディナーに舌鼓を打っていた。
そこに現れたオライリーは彼らを窘める。
「村人が何を食っていると思う?トルティーヤと豆だけだ」
オライリーの言葉に、ガンマンたちは村人とともに料理を分け合った。
いや、前言を撤回しよう。
七人全員が良いヤツだと。
そして、オライリーの素晴らしさに最も感銘を受けたシーン。
村人に裏切られ出て行くはめになり、身支度をしているときのことだった。
別れを惜しむ子どもたちが、自分たちの父親を腰抜けだと罵った。
すると、オライリーは血相を変え、尻を叩きながら叱りつける。
「父親は決して腰抜けじゃない。銃を持てば勇敢か?責任を負う父はもっと勇敢だ。家族全員を養ってる。その責任は岩のように重いんだ!死ぬまで家族への責任を負う。命令されてじゃない。愛しているからだ。俺にそんな勇気はない」
そして、オライリーはじっと目を見ながら言葉を継ぐ。
「収穫の保証などないのに一生懸命作物を育てる。実に勇敢だ。本当の勇気のない俺には無理だ」
子どもたちを仲間と認めるからこそ、オライリーは真の勇気について熱く語るのだ。
私が本作を初めて観た中学生のときには、この言葉の真意を必ずしも理解できずにいた。
だが、年齢を重ねるごとに、オライリーの台詞が身に沁みる。
きっと子どもたちにも、いつか理解できる日が来るだろう。
そして、ベルナルド・オライリーにも最期のときが訪れた。
彼を心配し、戦場に駆けつけた子どもたちを身を挺してかばうオライリー。
だが、その瞬間、凶弾がオライリーを貫いた。
「僕たちのせいだ!ごめんなさい!」
泣いて謝る子どもたちに、オライリーは語りかける。
「見てみろ…父さんたちは勇敢だ」
オライリーは共に戦った村人たちを讃え、息を引き取った。
生前、オライリーは子どもたちから「もし、おじさんが死んだらお墓にはいつも花を供えておく」と言われていた。
約束を守り、オライリーの墓に花を供える子どもたちの沈痛な面持ちが、あまりにも悲しい。
最期まで子どもたちの心に寄り添う、心優しいベルナルド・オライリー。
その生き様に涙を禁じ得ない。
ブリット
ナイフを投げさせたら当代随一の使い手。
それが“スピークラークのCM”でお馴染みの、ジェームズ・コバーン演じるブリットである。
ちなみに、ルパン三世の相棒・次元大介のモデルになったのがこのブリットであり、吹き替え版では次元同様、小林清志が声優役を担った。
まさしく孤高の二文字が良く似合う男である。
ブリットは、いきなり決闘の場面から登場する。
身のほど知らずのガンマンに喧嘩を売られ、返り討ちにした。
寡黙な雰囲気を漂わせ、鮮やかなナイフの早投げで無礼者を貫いた。
登場からほんの数分で、私は心を鷲掴みにされてしまう。
私事で恐縮だが、何を隠そう七人の中で最も好きな人物がブリットなのである。
また、ブリットはナイフだけが得意なわけではない。
射撃においても名うての手練れだった。
村に到着した翌日、盗賊団の数人が近くをうろついていた。
ブリットらは迎え撃つが、残党がひとり馬で逃げていく。
かなりの距離があるが、ブリットは狙いをつけ射撃した。
見事、一発で仕留めるブリット。
その様子を間近で見ていたチコは感嘆の声をあげる。
「最高の腕前だ!」
だが、ブリットは一言、渋く返す。
「最低さ…狙ったのは馬のほうだ」
黙っていれば分からないだろうに…。
こんなところにも、虚栄心とは無縁なブリットのマインドが見てとれる。
ブリットは金や名声を欲しているわけではない。
ましてや、命を懸けた真剣勝負に生き甲斐を見出すわけでもない。
只々、己自身との戦いに身を置く求道的な精神に、私は惹きつけられるのだ。
そんなブリットの孤高の魂が凝縮したのが、敵の銃弾で黄泉へ旅立つシーンである。
ブリットは目にも留まらぬ早撃ちで、敗走する盗賊団を次々と打ち抜いていく。
しかし、運悪く胸を撃たれてしまう。
ところが、倒れ込みながらも、トレードマークのナイフを投げつけた。
壁に突き刺さったナイフは、まるでブリットの墓標のようだった。
最期まで男の矜持をかけ、戦う意志を見せるブリット。
さすが次元大介のモデルになっただけのことはある。
“孤高のガンマン”ブリットよ、安らかに。
まとめ
「荒野の七人」について、思いつくままに書き連ねてきた。
実は、本稿を記したのは久しぶりに作品を鑑賞したことがきっかけだ。
そして、ある視聴者のコメントに私は思わず膝を叩く。
それは「この頃のハリウッドには品があった」というものである。
内容自体は盗賊団と用心棒のガンマンたちの銃撃戦という、荒っぽいものである。
にもかかわらず、全く粗野で下品な感じがしない。
意地や誇り、己の信じる正義のために立ち上がる男たち。
そのガンマンたちを演じる、一本筋の通った存在感あふれる名優の揃い踏み。
そうしたものが作品に投影されるからこそ、前述のコメントに説得力をもたらすのだろう。
盗賊団の長カルベラは死の直前、クリスに向かってこう言った。
「こんな村へ…なぜ…」
村人たちに裏切られた挙句、何の得にもならないのに、再び戻って来たことが理解できなかったのだ。
当然だろう。
損得だけで生きるならず者には、クリスの気高い精神が分かるはずもない。
そしてラストシーン、クリスはかく語る。
「勝ったのは俺たちガンマンじゃない。農民だ」
このセリフにも、クリスの人柄が窺える。
“義を見てせざるは勇無きなり”を胸に秘め、荒野に降り立った七人のガンマンたち。
その勇姿は時代を超えて男たちの魂をたぎらせる。
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