日経テレ東大学「社会人のための“死”入門」 ~生きること即ち死ぬことなり~

ノンフィクション




最近、YouTubeコンテンツ「日経テレ東大学」をよく視聴する。
先日公開された、芥川賞作家・羽田圭介をゲストに招き、小説の魅力や真髄について語り合った内容は誰もが小説を読みたくなる、YouTube史に残る名作といえるだろう。

もしよければ、レビューを掲載しているので下記標題をクリックして、ご覧いただければ幸いである。
「日経テレ東大学RE:HACK『芥川賞作家・羽田圭介』編

さて、本題に戻るが、今回は「社会人のための“死”入門」と銘打たれ、日本人の死生観についてトークを展開した。
MCにテレビ東京の高橋弘樹プロデューサー、コメンテーターに成田悠輔、ゲストには歌人で辞世にも造詣が深い田中彰義、日本人の死生観を研究する文化人類学者でチェコ出身の郷堀ヨゼフを迎え、番組がスタートする。

“死”という人間の本質的テーマだったこともあり期待して見たのだが、思っていたほど深みのある議論には必ずしも至らなかったように感じた。
正直、羽田圭介とともに語らった文学の地平への誘いの方が、興味深かったというのが正直な感想である。

だが、そうは言っても随所に学びのある話もあったので、ここに紹介させていただく。

デジタル社会における“死”の概念

冒頭、死についての見解を問われた成田悠輔が、話の端緒を切る。

「たぶん、“死”っていうものが、ある意味で無くなっていくんじゃないか…そんな気がする。人間の身体自体が生きていることとは関係なく、勝手に流れているデジタルな情報が増えている。ということは生身の人間が死んでも人間のアカウントは残り続け、その人のコンテンツや名前、アイデンティティも残っていくのではないか」

それを受け、郷堀ヨゼフは言う。

「“生”とか“死”とか“誕生”というのは、まさに私たち人間が勝手に作った概念である。書類には生年月日を書く欄があるが、遡れば母親のお腹の中で過ごした10ヶ月、卵子と精子が受精した瞬間、そして更に前に戻りDNAを紐解くと“生”というものがずっと繋がっている。人間が生まれた“誕生”と終わりと想定されている“死”の間を、人間が勝手に“人生”と呼んでいるに過ぎない。生命の流れからすると、本当に勝手なものだと言わざるを得ない」

いきなり、成田悠輔が生命としての死とは別の、アーカイブ的な意味での死は無くならないという、意表の切り口で話を展開する。
そして、郷堀ヨゼフが語る生命の本質と壮大な営み、それに対して人間が定義する「生」「死」「誕生」「人生」についての所感が思慮深く、人間の持つ概念の狭隘さ、そして自分勝手さを今更ながら理解した。
冒頭から、達人同士の切り結びといった感じがする。




死してなお残るもの

そして、辞世マニアの高橋プロデューサーと、その研究をする田中彰義の意向もあって、伊勢物語の主人公とされる在原業平や吉田松陰などの辞世の句を読み解いていく。

人生の最期に認めた31文字の辞世の句に、己の想いや魂のようなものを込めた先人たち。
現代風にたとえると、それはあたかも成田が語った肉体は朽ち果てても、それを自分の分身であるアバターのような形で生き残らせた行為ともいえるだろう。

辞世の句について、ひと通り薫陶を受けた成田悠輔は頷いた。

「アートとか文学は、元々そういう側面がすごく強かった。なので、僕が最初に話したことと今の話の違いをあえて作るならば、かつてはアートや文学でしか残りにくかったが、今だと日常生活やもの凄い低俗なものまで情報が残るようになったのではないか」

頭の悪い私はここまで聴いて、成田悠輔の冒頭の言葉の意味を完全に理解できた。
良くも悪くも、デジタル社会においてはあらゆる手段で容易に情報を残せることが、とても腑に落ちた。

私もかつて、人の死について考えを巡らせたことがある。
故人は生きている人たちに忘れ去られたとき、本当の死を迎えるのだと、誰かが言っていた。
であるならば、ピカソやゴッホ、モーツアルトやベートーヴェンなどは当然、肉体は滅んでも今も生き続けている。
本来、生命としての個は種を残すためにDNAを運ぶ役割に過ぎない。
だが、人間だけは生きる意味を問いかけ、その証を後世へ残すことができる稀有な存在といえるだろう。

こう見ると、深い考察に基づく、なかなか良い議論ではないか。
どうやら、文字に書き起こすことにより、深い理解が促された気がする。

朝令暮改とはこのことだ…(汗)

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“死”とは

人類普遍の“死”の捉え方について、郷堀ヨゼフはかく語る。

「在原業平の時代と現代の感覚はよく似ている。私たちはいつか死ななければならない。それは皆理解している。だが、まさか今日明日の話ではないと思っている。だから、まだまだ大丈夫という感覚が、数百年数千年の時を越え、ずっと我々の根底に流れている。それはヨーロッパに行っても同じである。中世十字軍に派遣された人々も死が目前に迫りながら、まだ大丈夫、きっと故郷に帰れるだろうという淡い願望を抱いていた」

完全に同意である。
死刑囚や余命宣告を受けた人以外、死を見つめて生きている者など一体どれほどいるのだろう。
それにしても、チェコ出身ながら郷堀ヨゼフの日本語は実に流暢で、温かみと品のある語り口はまさに“声に出してみたい日本語”といった趣だ。
新潟県の山岳部に居を構える彼は、日本人よりも日本人らしい心を持っているように感じる。

「なんか、凄い楽しい。RE:HACKより楽しいかもしれない」

嬉しそうに笑顔を浮かべる高橋プロデューサー。
その気持ちはよく分かる。
話の内容もさることながら、場の空気がとても和やかなのだ。

そんな中、成田悠輔の意外な過去が明かされる。
なんと、あのインテリの権化ともいえるイエール大学助教授の彼が、山岳部に所属していたという。
何度も死にかけたそうなのだ。

その時の体験を淡々と語っていく。

「基本的に山とか川とか海は、いつ死んでもおかしくないものじゃないですか」

話の本筋とはそれるが、この発言は真理だと感じた。
自然はたしかに素晴らしいが、厳しきものでもある。
この認識を持たず、自然を舐めている人たちが散見されるような気がする。
高橋プロデューサーも反応し、今度別枠で放送するようなので、ぜひ視聴してみたい。

そして、番組の終盤、田中彰義が語った言葉も印象に残った。

「レオナルド・ダ・ビンチが晩年語った言葉がある。“自分は生き方を学んでいるつもりだったが、最期死に方を学んでいた”という言葉を残して亡くなった」

これこそが、“生”と“死”の狭間にある本質ではないか。
人は、“死”を忌み嫌い、“生”にばかり執着する。
だが、実は“生”と“死”は連綿と続いており、本来は隣合わせの存在で、コインの裏表のようなものである。
だからこそ、“どう生きるか”は“どう死ぬか”であり、逆もまた然りなのである。

辞世の句をテーマにした最後に、郷堀ヨゼフが締め括る。

「自害というものは死そのものを受け入れているかどうかで、死が変わると思う。人生というものは後悔の連続であり、やらかした事、やるべきだった事、やらなかった事が私たちには残っている。だけど、人生の最期でレオナルド・ダ・ビンチが言ったように“生きること=死ぬこと”を悟り、死を受け入れる。そうすれば、失敗や後悔まで丸ごと受け入れて死んでいけるのではないか」

人は完璧ではないため、うまくいかないこと、理不尽なことの連続である。
というよりも、うまくいくことの方が少ないのではないか。
だが、その無念の想いを受け入れることこそが、人生の最期でなすべきことなのかもしれない。
それができてこそ、人は心の底から成仏できるのだろう。


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最後に

この番組を見て、私は漫画「アカギ 闇に降り立った天才」に登場する、赤木しげるの最期の言葉を思い出す。

「無念が願いを光らせる」

彼の生き様、死に方こそ、“どう生きるか=どう死ぬか”を体現している。

参考までに、それは赤木しげるの晩年を描いた「天 天和通りの快男児」16~18巻に収録されている。麻雀漫画にもかかわらず、一切麻雀はしないので、ルールを知らない方でも16~18巻の「通夜編」は楽しめる構成となっている。

今回の動画とあわせて、その結末もご覧いただければ“生と死”への想い、そして“死生観”に変化が訪れるかもしれない。


天-天和通りの快男児 16(通夜編)

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