「闇に降り立った天才」赤木しげるの名言・名場面㉜
愛弟子ひろゆき編part2『冒瀆』

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東西の裏プロたちが利権をかけ、鎬を削る「東西戦」。

天やアカギを擁する東。
原田・僧我が残る西。

両陣営が火花を散らす決勝戦も、いつしか10半荘目に突入した。

勝負処

天以外はマンガンを振れば箱割れで敗退が決まるという、厳しい局面を迎えていた。
そんな中、原田は果敢にドラポンに打って出る。
これでマンガンが確定した。
原田から漂うテンパイの気配。
しかし、アカギは臆せず原田に危険牌の四索を強打する。

「相変わらず…無茶をするお人や」

そう言いながら、手牌を倒そうとする原田。
その動きを見て、リーチをかけていたひろゆきが頭ハネであがった。
本来ならば、味方のアカギからあがることは有り得ないが、緊急避難的な措置に出たのである。

実は、原田のあがり牌は前巡にアカギのカンで封殺されており、四索に反応したのはブラフだったのだ。
ひろゆきの当たり牌を四索と見切った原田の読みと咄嗟の機転により、ひろゆきは痛恨の勇み足を犯してしまう。

今のところリーチ・タンヤオ・ピンフだが、裏ドラが1枚でも乗ったらアカギの敗退が決まる。
通常の裏ドラに加え自らのカンにより、もう1枚裏ドラを増やしてしまったアカギは絶体絶命に追い込まれた。
すると、ひろゆきに悪魔が囁いた。

「裏ドラを崩してしまえ。そうすれば、アカギさんは助かる。そもそもが、最初に原田が汚い空モーションを仕掛けてきたのだ。もちろん、自分はチョンボとなり敗退するかもしれないが、その方がはるかにマシだ」

その刹那、アカギはひろゆきに小声で呟いた。
その言葉を聞いたひろゆきは、意を決し2枚の裏ドラを捲る。
緊迫感漂う中、1枚も乗らず命拾いするアカギ。
いや、その時の精神状態からすれば、助かったと安堵したのはアカギではなくひろゆきだったことだろう。

それにしても、さすが赤木しげるの生命力である。




冒瀆

あの場面、アカギはひろゆきに何を囁いたのだろうか。

「ひろ…礼を逸したことはするなよ」    

これこそが、赤木しげるの口から紡がれた言葉だった。

終局後、自らの勇み足で迷惑をかけたことを謝罪するひろゆき。

「そんなことは、別に構わねえよ。いろいろあるさ、勝負してりゃあ」

全く意に介した様子も無く、こともなげに答えるアカギ。

「実はもうひとつ…誤解を解いておこうと思って…」

ひろゆきは「礼を逸したことはするなよ」という言葉の意味を、アカギに対してのことだと思っていた。
つまり、裏ドラを崩してひろゆきが敗退するのはミスをした以上当然であり、アカギに譲ろうなどというつもりはない。
決して、アカギを軽んじる気持ちなど微塵もなかったのだと。

必死に弁解するひろゆきに対し、赤木しげるは静かに語りかける。

「ひろ…礼を逸するなっていうのは、俺に対してってことじゃねえよ。俺たちが今、血道を上げているこの勝負に対して失礼だと言っている」

「勝負?」

アカギの真意を測りかね困惑するひろゆき。

「ああ。西の汚い空モーションがあったとはいえ、ともかくお前はロンを宣言して手牌を倒した。その行為、すでに起きてしまった結果を否定しちゃいけない。その結果を破棄するような真似。つまり、ヤマを崩して裏ドラの確認を不可能にするなんていうのは、俺たちが今まで営々と続けてきたこの勝負の否定…。冒瀆だ!」

じっと自分を見据える赤木しげるに、ぐうの音も出ないひろゆき。

「フフ…皆よくやるのさ。土壇場に追い詰められると、このすりかえを。自分の身さえ捧げれば…自分の身とひきかえならば、どんな違法も通るという誤解。それで、責任をとったようなヒロイズム。とんだ勘違いだ」

真剣な眼差しで、赤木しげるはひろゆきに勝負の理を諭した。

「責任をとる道は身投げのような行為の中にはない。責任をとる道は…もっとずーっと地味で全うな道」




所感

歳月を経て、チョイ悪オヤジ風の佇まいを見せる赤木しげる。
若い頃の尖った感じは影を潜めたものの、相変わらず人を喰ったような太々しさは健在である。
だが、数多の修羅場を潜り抜けてきた“神域の男”は年輪を積み重ねたことにより、人としての器に深みが増し、さらに魅力的な人物となっていた。

そんな晩年の赤木しげるは未熟なひろゆきに何かと目をかけ、しばしば我々凡夫にとっても目から鱗の箴言を説いている。
その佇まいは“赤木しげる”らしさを残しつつも、若かりし時代の“異端”“狂気”を内包した姿とは若干異なる、大人の余裕を感じさせる。
そして、彼の口から紡がれる言葉は勝負の本質を射抜くのだ。

若き赤木しげるは兎にも角にも異才ぶりが目につき、不合理に自らの命運を委ねることを厭わぬ神域の闘牌を繰り広げていた。
そして、戦いに敗れし者たちに向かって放たれる言葉は勝負の真理を捉えつつも、どれもが辛辣で相手の心を一刀両断する鋭理な刃物のようでもあった。
しかし、年輪を重ねた赤木しげるの言葉は、ひろゆきを通じて我々も導く箴言の宝庫である。
その様は迷える子羊を救う導師のようではないか。

ひろゆきに対して言った「礼を逸してはいけない」という赤木しげるの言葉。
この言葉の真意を知り、若かりし日と変わらぬ赤木しげるの矜持に感銘を受けずにはいられない。
年をとるに従い垢にまみれていく人の世にあって、どんなに時代が変わろうとも、赤木しげるの魂だけは不変なのである。

そして、赤木しげるという稀代の麻雀打ちは、本当に大切なものを忘れていないのだと。
それは、同じ卓を囲み真剣に戦っている雀士たちが心血を注いで築きあげた勝負そのものが、何よりも神聖なものであるということだ。
勝った負けたという結果よりも大切なものこそが、勝負そのものである。
そして、互いに死力を尽くした結果は、どんなことがあっても受け入れなければならないと言うのである。

人はどうしても結果が欲しい。
レートが高くなるほど、成功の果実が大きくなればなるほど、それは顕著になっていく。
我々は「勝ちたい」という結果を欲しがるあまり、上手くいかなくなると嘆き悲しみ、茫然自失となる。
そして、望む結果が得られないことが濃厚となるや、ベストを尽くすことを放棄する。
結果が全ての我々凡夫は、すぐに心が揺れてしまうのだ。

ところが、赤木しげるはどうだ。
10代の頃から死すら受け入れる覚悟を持ち、どんな逆境に立たされても決して揺れない心。
その源泉にあるのは、起きた結果はどんなことがあっても受け入れる、ブレない覚悟にあるのではないだろうか。

さらに、どんな場面でも己を信じ抜き、最期まで諦めず最善の努力をする。
その姿は、あたかも結果ではなくそこに至る過程こそが重要なのだと、我々に身をもって示してくれている。
結果を求めず、恐れないからこそ、赤木しげるは身を捨てられる。
そんな赤木しげるに我々は潔さを感じ、憧憬を抱くだろう。

そして、赤木しげるの結びの言葉。

「責任をとる道は身投げのような行為の中にはない。責任をとる道は…もっとずーっと地味で全うな道」

なんという正鵠を射た言葉だろう。
赤木しげるは紛れもなく天才である。
とかく、天才の発言というと派手で華々しいイメージがあるのではないか。
だが、どちらかというと地味で天賦の才に恵まれていない苦労人が口にするような言葉を、あの天才の口から発せられるとは…。

“自分の身とひきかえにすれば”責任をとった気持ちになるのは、誰しも身に覚えがあるのではないか。
しかし、赤木しげるは「そんなものは考え違いのヒロイズムにすぎない。どんなに苦しくても、自らが犯した過ちは歯を食いしばりながら受け入れ、逃げることなく最後まで地道に責任を果たしていくしかない」と言うのである。

思えば、赤木しげるは一貫して何者にも頼らず、己の才覚だけを恃みに生きてきた。
自分が蒔いた種は、全て自分自身で刈り取ってきたに違いない。
常人の何倍もの濃密な人生経験があればこそ、赤木しげるの言葉は我々の心に深く響くのである。


天-天和通りの快男児 10(本ストーリー収録巻)

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