「天才」成田悠輔 〜現代に生きる智慧者・哲学者〜

ノンフィクション




何かと世間を騒がせるイエール大学助教・成田悠輔。
高齢者の集団自決発言を筆頭に、数多くの問題発言をステイトメントしている。

だが、彼は本当にホリエモンやひろゆきら炎上系インフルエンサーと同列に位置する人物なのだろうか。
独断と偏見で所感を述べていく。

哲学者

様々な才能を発揮する成田悠輔だが、肩書としては経済学者が一番適切だろう。
素晴らしい美声に乗せた流暢な語り口。
私が今まで見た論客で彼を超える人物は見当たらない。

とかく専門家という人種はやたら横文字や専門用語を乱発し、ドヤ顔する残念な者達が跋扈する。
そんな中、難解な事象や概念を我々凡人にも分かりやすく噛み砕いて説明できるのが成田悠輔といえるだろう。
そういう意味においても稀有な存在といえる。

しかしながら、個人的には哲学者あるいは思想家としての発言に膝を打つ。
成田悠輔が哲学者などと言っても、多くの人は疑問符しかないだろう。
哲学とは人生や世界の有り様・根源を理性をもって探究し解き明かしていくものだ。
聞けば聞くほど、成田悠輔の発言はある種の哲学に通底していると言わざるを得ない。

1. インド仏教の僧侶・小野龍光と語りし人間の真理

元テレビ東京の名物プロデューサー・高橋弘樹が立ち上げたYouTubeチャンネル「リハックQ」。
その番組の中で、成田悠輔は小野龍光と対談した。

ちなみに小野は「17LIVE」の元CEOであり、年商100億を超える企業家であった。
ところが、インド仏教界の重鎮・佐々井秀嶺と出会い僧侶へと転身する。
そんな異色の人物との対談は「リハックQ」の数ある番組の中でも、最も素晴らしいコンテンツの一つといえるだろう。

小野龍光はかつてIT界隈で名を馳せた経済人とは思えぬ、まるでビルマの竪琴に登場する僧侶といった風情である。
本人曰く、事業に成功し莫大な収入を得ても、どこか満足できない自分がいたという。
元々はITを通して世の中に貢献することが目的だったはずなのに、いつの間にか金や成功に囚われていく。

その事実に苛まれ職を辞した後、たまたま佐々井秀嶺と邂逅を果たす。
そこには資本主義経済とは全く異なる基軸で人々を支援し、人生を良くしていく活動が存在した。
小野龍光は初めて、自分が求めていた生き方を知ることができたのだ。

いつになく前のめりになり、真剣な表情で耳を傾ける成田悠輔。
本当に興味のある話題になった時に見せる、成田特有の姿である。
いや成田ならずとも、多くの視聴者が小野龍光という人物には興味が湧いたことだろう。

小野は言う。

「数字というものはいくら追ってもキリがない。今でも存在するが、かつての自分はより多くの名声を欲し、そのことに苦しんでもいた。お金、そして数字というものが、かえって人を不幸にするのではないか。自分自身としてはその世界から脱却でき、今は満ち足りている」

すると、成田悠輔が切り込んだ。

「ちょっとツッコミたい部分があるんです。その囚われを一枚一枚はがしていった一方で、インドに行かれたとき目にした仏教徒たちの事業がこれまで御自身がやられていた事業に比べ、人々の生活とか幸福に貢献している感触を得たと言われていたじゃないですか。事業の価値とか人に対する貢献みたいなものに心を惹かれてしまうというのは、囚われている自我の別の表れでしか無いんじゃないか…。
つまり、それまでVC投資で得ていたリターンの尺度よりはもう少し幅広いものであるかもしれないが、そこに自分と社会というものがあって、社会に対して自分が何を提供できるかという世界観みたいなものが、まだ何となく残っているんじゃないかっていう気がしたんですよね」

そして、続けた。

「いろいろ囚われを剥がしていく中で、どこまで行っても自分の中にある“囚われ”とか“自我”を燃やし尽くすことはできないのではないか。別の言い方をすると、どの自我や囚われを最後に自分の中に残すのかというのが重要な気がします」

人間の本質を看破する成田悠輔の箴言。
得度した小野龍光以上に悟りを開いているように感じたのは、私だけではないはずだ。
この発言には小野龍光も思わず首肯した。

そして、番組の最後を締めた成田節が秀逸だったので紹介する。

「諸法無我。しかし、私達は自我を捨てることができないものです。たまねぎの皮を一枚一枚むくように“囚われ”と“煩悩”を剥がしていった先に何が残るのか、あるいは残らないのか…答えのない議論を元IT資本主義の化身にして現在は信心坊主、小野さんと一緒に考えてきました。また100年後の22世紀に同じ議論をしてみたいと思っているところです。小野さん今日はどうもありがとうございました」

このまとめをアドリブで、しかも淀みなく語るのだから恐れ入る。

インド仏教僧侶・小野龍光とともに語る、燃やし尽くせぬ “囚われ”と“自我”。
我々が残すべき“自我”とは何なのだろうか。




2. 難しい本との向き合い方

「ソレいる?六本木会議」という番組で成田悠輔が難読本について解説していたのだが、その内容に私は聞き入った。
成田は本の種類、そして難解さについて語っていった。

「説明書のように情報を手に入れるタイプの本もあれば、ひとつの絵に向き合うようにそのパターンを体験するために存在する本もある。詩とか文学ならば体験するための本だと分かりやすいが、そういうものではないものにも体験するための本は沢山ある。だけど、体験は言葉で要約したり説明したりするのはとても難しい。それが難しさのひとつの理由なのではないか」

そして、言葉を継ぐ。

「難解だと言われているものは、そこに含められている情報が複雑だとか、論理が込み入っているというだけではないと思う。むしろ、そこに書かれている文字の世界をそのまま美術館を歩くように、あるいは街の中を歩くかのようにデザインされている。そして、その体験が総合的なものなので簡単にそれを人に伝えるとか紹介するのが難しいため、難解なのではないか」

ここまでは抽象的な話が続いたが、途中から柄谷行人著「力と交換様式」を例にして話が進む。
ちなみに、柄谷行人は哲学のノーベル賞とも称される「バーグルエン賞」をアジア人として初めて受賞した哲学者で、成田は10代の頃から彼の著書を愛読していた。

司会のアナウンサー久保田直子が、自身の感じる難読本について所感を述べた。

「出てくる言葉自体が難しくて意味が分からない。そして、意味が分からない言葉が続くから内容が理解できない。そういうものが難しい本なのだと思う」

私も「力と交換様式」を数ページ見てみたが、久保田アナが言うように抽象的かつ難解な言葉の洪水に早々に断念した。

成田は久保田の言葉に頷きながら、核心の部分に触れていく。

「たしかに、それは言える。何で難しく見える言葉を使うかというと、言葉の世界にしか存在しないものに名前を付けるからではないか。そもそもタイトルにある“交換様式”からして分からない。かねてから気になっているのは、難しく感じる言葉はなぜ難しいと感じるのか…」

そして、結論を述べた。

「(逆に考えると)簡単な言葉というのは、たぶん現実世界とか生活の中で対応しているものがある言葉だと思う。例えば“本”という言葉は難しく感じない。それは身近に存在し、実際に触れることができるからではないか。“カメラ”“カレー”“親”といった類の言葉も同様で、生活の中の局面ではっきりしている。
しかし、言葉の中には生活の中に直接対応するものがない言葉がある。それを我々は難しい言葉と呼んでいるのだと思う。そういうものを作り出す力が言葉にはあるのではないか。自分たちが生活する中では出会わないようなお化けやジブリ映画に登場するまっくろくろすけ的な存在がいて、その片鱗を感じたり見たりする瞬間がある種の人々にはあるのだと思う。
世界を動かしているまだ名前の付いていない何かの力や存在を感じたり出会ったりしたいという欲望が人間にはあり、その存在を掴むために新しい言葉を作り出し、言葉の世界に起ち上げるのだと思う。もちろん瞑想や神秘体験などの手段もあるだろうが、そのひとつとして言葉を通じて新しい世界や概念を作り出す方法があり、そうすると“交換様式”という言葉が出てくる」

非常に抽象的で難解なテーマにもかかわらず、これだけ我々凡人にも分かりやすい説明がかつてあっただろうか。
成田悠輔の凄いところは難しい事柄を、多くの人が理解できる言葉に落とし込む翻訳能力だと感じる。

この言説を見ていただければ、彼が一経済学者の枠を超えた哲学者、もっといえば智慧を携えた人物であることが理解できるだろう。




まとめ

人は類稀な才能を見つけると、聖人君主であることを期待する。
だが、そんなものは幻想だ。
人格と才能は全く別ものであり、むしろ人格が破綻しているからこそ、突出した能力を持つ場合もある。

知性と教養というベールを纏う成田悠輔もまた、必ずしも人格者とは言えないのかもしれない。
しかし、知的なだけでなく彼特有のユーモアは秀逸であり、非常に魅力的な人物であるのは間違いない。

どうか彼を評価するときは、言葉の断片ではなく全体を聞いてから判断してほしい。
そして、なるべく多くの話を聞いてほしい。
いかに成田悠輔の知見が幅広く、多岐にわたるかが分かるはずだから。

きっと、混迷の時代を生きる我々に少しだけヒントと道標を与えてくれるだろう。


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