最近、小学館の漫画アプリ「サンデーうぇぶり」に登録した。
『葬送のフリーレン』を読むためであったが、久しぶりに懐かしい作品と再会する。
その作品とは一時代を築いた『タッチ』である。
硬派な野球漫画の執筆に生涯を捧げた水島新司は、「野球を恋愛の小道具として扱っている」と憤慨していたことを思い出す。
私も『ドカベン』や『キャプテン』等、ひたむきに白球を追い続ける姿に心惹かれたこともあり、少し甘ったるいテイストの『タッチ』には複雑な感情を抱いていた。
だが、数十年のときを経て読み返すと、これはこれで素晴らしい青春群像を描き切っていると感じる。
そして、私はなぜか大ヒットテーマ曲「タッチ」ではなく、エンディングで流れた「青春」の切ないメロディを思い出す。
この作品を見るにつけ、思わずにいられない。
それはあるドラマの名セリフ「再会…それは人生の中で最も素晴らしい出会いである」という箴言を。
幼馴染の3人
上杉家の兄・達也と弟・和也は、双子として生を受けた。
そして、同じ年に生まれた南はお隣さんということも手伝って、幼馴染として常に一緒に過ごしていた。
そんな中、南は容姿端麗な少女へと成長し、双子のふたりは否が応でも意識するようになる。
だが、弟思いの達也は自分の心に蓋をする。
これは何も恋愛に限ったことではない。
兄の背中を追いかけて和也が野球に打ち込むと、いつもどおり自らはサッと邪魔せぬように身を引いてしまう。
世間では優秀な弟に対し、ダメ兄貴としてのレッテルを貼られるも、それは常に弟の幸せを願うからだった。
“甲子園に連れてって”という南の夢を叶えるため野球に打ち込む和也だが、子どもをかばって交通事故に遭い帰らぬ人となる。
それは地方予選決勝の朝であり、甲子園を目前にしてのことだった。
亡き弟の遺志を受け継ぎ、立ち上がる兄・達也。
南の夢を叶えるため、残された明青学園野球部ナインのため、上杉達也は灼熱のマウンドで投げ続けるのであった…。
あだち充 匠の業
最近の漫画はセリフ過多で、あまりにも心情や状況説明をしすぎるきらいがある。
一説によれば、読者の文脈を読み取る能力の変化に対応するためだとも言われている。
それに対し、「タッチ」を筆頭にあだち作品の多くは行間から伝える技術が秀逸だ。
ちょっとした間や一見ストーリーとは無関係な風景の描写により、登場人物の心象風景を見事に表現する。
そのことにより、ストーリーに挿し込まれた景色が我々に四季折々の情景を想起させ、まるで季節ごとの匂いや空気感を追体験しているような感覚に導く。
このようにセリフを極力抑え、絵だけで伝えることはさぞかし勇気がいるだろう。
一歩間違えば、何も伝わらない可能性もあるからだ。
しかし、行間から想いがにじみ出るので、主人公たちの心の動きが静かだが確かな余韻を残し響いていく。
要するに、押し付けがましくないのだ。
まさしく匠の業とはこのことである。
須見工との決勝戦
明青学園は達也の力投の甲斐あって、真夏の地方予選決勝に進出する。
甲子園出場をかけて戦うは、宿命のライバル新田明男率いる須見工だ。
亡き和也への想いを必要以上に意識し、調子が上がらない達也。
だが、徐々に本来の姿を取り戻す。
実力伯仲の両チームが互角の戦いを展開する中、ついに明青が延長10回表に勝ち越した。
1点を追う須見工はその裏、二死二塁の場面で4番新田がバッターボックスに入る。
一打同点、ホームランならサヨナラだ。
しかも、前の打席に新田は特大のアーチをかけている。
正念場を迎えた明青は、マウンド上の達也の周りに野手が集まった。
すると満身創痍のナイン一人ひとりに、達也は労いの言葉をかけていく。
普通は、野手がピッチャーに声をかけるはずなのに…。
そして、続けた。
「ここは当然敬遠だろうな。たいしたもんだよ、おまえら。あの鬼監督のシゴキにも誰ひとり逃げ出さなかったもんな。誰にも文句は言わせねえ。自信を持って甲子園行っていいぜ!」
達也の周りから輪がとけて、各自ポジションにつく。
その時だった。
キャッチャーの孝太郎が、大声で野手に指示を飛ばし始めたのである。
「ショート、もっとサードに寄れ!外野バック!あと一人!しまっていこうぜ」
「おう!」
威勢よく返事するナインに目をやる達也。
そこには“達也!悔いを残さぬよう勝負しろ!”と顔に書いてある。
敬遠を覚悟していた新田は、孝太郎に礼を述べる。
そんな新田に、達也の女房役は答える。
「そんな筋合いはござんせん。こうなる運命なんです。あいつの力を目いっぱい引き出せるのはあんただけです」
私は数ある「タッチ」の名場面で、このシーンが一番好きである。
上杉達也という男は、常に自分より周囲のことを考える。
自分ひとりのわがままで、ともに苦楽を共にした仲間の努力を無駄にするわけにはいかない。
そんな達也の想いを知ればこそ、孝太郎を筆頭に明青ナインは達也の背中を後押しする。
それも直接達也には言わず、孝太郎を中心にナイン自ら態度で示すのだ。
そして、孝太郎たちは達也に感謝もしていたのだろう。
和也亡き後の明青野球部をここまで引っ張ってくれたのが、他ならぬ達也だったのだから。
なればこそ、たとえ甲子園の夢は絶たれても、エース達也の本懐を遂げさせてやることを良しとした。
カウントツーナッシングから投じた渾身の一球に、新田明男のバットは空を切る。
その瞬間、上杉兄弟の悲願…南を甲子園に連れていく夢が結実した。
まとめ
須見工の監督に、新田は謝罪する。
監督は吹っ切れたようにこう言った。
「思い出したよ…新田。おれたちが目指していたものを…甲子園なんてものは、ただの副賞だったんだよな。その副賞に目がくらんで相手のスキをついたり、だましたり、勝負を逃げたり…教育者として心が痛い」
そして、もう1つ深く心に残ったシーンがある。
失明の危機に瀕し入院した柏葉監督の下に、達也と南がお見舞いに行く。
目に包帯を巻き、つっけんどんな態度に終始する柏葉に、達也は頭を下げながら心から礼を言う。
「甲子園に行きます。ありがとうございました」
達也は去り際にお見舞いと称しリンゴを渡した。
その感触に柏葉はハッとする。
それは、“1986年7月30日須見工戦”と記された硬球だった。
達也は大切な決勝戦のウィニングボールを柏葉に届けたのである。
和也の仏壇に供えるでもなく、南にプレゼントするわけでもなく、これから手術に向かう不倶戴天の敵にして明青野球部監督の柏葉に贈るとは…。
そして、その男はいつまでも汗と涙が詰まった白球を噛み締める。
上杉達也のさりげない優しさが読者だけでなく、柏葉英二郎にも沁みた…。
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