元大王製紙会長・井川意高 ~ギャンブルの業火に焼かれた男~

ノンフィクション




みなさんは、元大王製紙会長・井川意高(もとたか)をご存知だろうか。
大王製紙の創業家3代目にして、ギャンブルで106億円溶かした人物である。
そのときの不正借入の咎で会長職を辞任しただけでなく、特別背任罪で実刑判決も受けた。

今回、YouTube番組「街録ch」を視聴し、改めて大企業の御曹司の実態に驚きを隠せなかった。
巷間、上級国民というフレーズが世を賑わせているが、井川意高は間違いなくその界隈の住人である。

我々庶民では窺い知れぬ天上人にして、“ギャンブルの業火に焼かれた男”について述べていく。

井川意高の印象

井川意高は1964年7月28日に生まれ、現在58歳である。
もちろん、財界の超大物なので名前は知っていたが、逆に言えばその程度しか知らなかった。

私が彼に興味を抱いたのは、やはり「106億溶かした男」として騒がれた後である。
元々夜の街で豪遊していたこともあり、事件発覚後、週刊誌やネット等のゴシップ記事で様々な噂が飛び交っていた。
特別背任のきっかけになったカジノについてのみならず、女性タレントやモデル等の綺麗どころとの派手な交友関係も目を引いた。

中でも特に印象深かったのが、芸能界のドンの息がかかった某女優に骨抜きにされ、散々ぱら大金を引っ張られたと喧伝されていたことだ。
なので、情報弱者の私は井川が溶かしたほとんどの金はギャンブルではなく、某女優に持っていかれたものだと勘違いしていた。
そもそもが、そうした記事自体にどこまで信憑性があるのかも分からない中、勝手にとんでもない人物だと半ば決めつけていたのである。

たしかに、とんでもないのは間違いないだろうが、「街録チャンネル」を見て感じたのは育ちの良さや知性の高さである。
ただ、眼光はそこまで鋭くないが常人のそれとは明らかに異なっており、髪型も手伝って市川海老蔵に少し似ているようにも思えた。
というよりも、歌舞伎俳優ら帝王学を叩き込まれ育った者だけが纏う、独特の雰囲気のようなものを感じた。




エリート企業人

すでに井川は出所しており、現在の職業は「ニート」だという。
だが、生活に困っている様子は微塵も無く、悠々自適に暮らしている。
さすが、生まれながらの大金持ちは100億を返済し、収監されたぐらいではビクともしない。
気になるギャンブルの方だが、今ではすっかり熱は冷めたそうである。

一族は愛媛出身だが井川自身は京都に生まれ、幼少期をアメリカで過ごした後、小学校入学前に愛媛に戻る。
まだ大王製紙はエリエールの発売以前で、そこまでの大企業ではなかった。
井川自身も、他の友達と野山を駆け回って遊んでいた。

その後、東京に引っ越し、中学から筑波大附属駒場高校に入学する。
実は、小学4年の時に6年生に交じって代々木ゼミナールの模試を受けたことがあり、なんと全国で2位になったという。
幼稚園で九九を覚え、本もよく読んだ少年時代を過ごした賜物だったのだろうか。
何はともあれ、東大に受かるだけのことはあり、その頃から頭脳明晰だったことだけは間違いない。
ただ、高校までエスカレーター式だったこともあり、雀荘やパチンコ屋に入り浸っていたそうだ。
すでに、後年の片鱗を窺わせる井川意高。

東大を卒業すると将来に備え、原価計算をこなせるよう簿記の専門学校に1年通った後、大王製紙に入社する。
最初の配属は工場勤務であり、平社員として様々な部署を見て回り製造工程を勉強した。
入社して4、5年目には工場長代理に昇格する。
工場長代理を1年経験した後、赤字経営の子会社に出向し、見事4年で黒字転換に成功する。

ようやく赤字会社を再建させたのも束の間、今度はオムツや生理用品等の家庭紙部門への転勤を命じられる。
いずれも父親の意向であり、子ども時代からのスパルタ教育が続いていた。
そこでも徹底的に営業から開発までを見直し、品質にこだわる理念を掲げ、売り上げを好転させていく。
もちろん、その過程では売り上げが落ち込んだこともあったが、井川自身も毎週末店頭に立って実演販売を行った。
こうした地道な努力があってこそ、徐々にシェアを広げることができたのだ。
井川は実績を認められ、42歳の若さで社長に就任した。

私はようやく、井川という男を誤解していたことに気が付く。
東大出ということもあり、頭が良いことはもちろん知っていた。
だが、大して苦労もせず、親の七光りで会長職まで上り詰めたと思い込んでいた。
ところが、実際は試行錯誤の末、赤字部門を再建した有能な企業人だったのである。

転落への道

それまでは麻雀を嗜む程度であった井川が、初めてカジノと出会ったのは30代半ばの頃である。
友人夫婦と共に向かった先は、オーストラリアのゴールドコーストだった。
出発時は旅費を含めて100万だった現金が、帰りには2000万になっていたという。
ちなみに、その時からバカラで勝負した。

これで味をしめたと思いきや、しばらくはカジノに行くことはなかった井川。
ところが、40代になって、あることがきっかけとなりハマっていく。
それまではギャングシティと呼ばれていたマカオが、綺麗な街に変貌を遂げたのだ。
中国に返還されたことを端緒とし、アメリカ等の資本が注入されることに伴って治安が劇的に改善したのである。
このことにより、井川は友人に誘われ遠征するようになる。

頻繁に顔を出すうちに、井川はカジノの上客として歓迎された。
徐々に、賭け金も膨らんでいく。
また、当初は半年に1回程度だったのが月1ペースとなり、最後には毎週のように通っていた。




ギャンブルの業火に焼かれた男

当時、井川は一張り3000万円のレートで賭けていた。
日本円に換算して23億まで勝ち金を増やしたこともあったが、翌日勝負して全額スッてしまう。
もはや勝ち負けではなく、痺れるような勝負に身を置くことが目的と化していた。

井川は言う。

「ギャンブルは臨死体験だ」

井川にとって数百万のレートなどギャンブルではなく、それはもはや単なるゲームに過ぎない。
破滅するようなレートで勝負してこそ、ギャンブルなのだ。

ではなぜ麻雀などとは違い、運のみのギャンブルであるバカラにハマったのだろうか。
もちろんバカラが好きなのもあるが、一番の理由は別にあった。
普段仕事している時は合理性を重んじ、理によって経営判断をする。
だからこそ、時には合理性から解き放たれ、理ではない何かに身を委ねたくなるのだという。

私は井川の言葉を聞き、漫画「アカギ」の主人公・赤木しげるの箴言を思い出す。

「不合理こそ博打…不合理に委ねてこそギャンブル」 

まさに当時の井川のメンタリティーは、「不合理に身を委ねてこそ…」そのものではないか。

そして、井川はこう言った。

「23億になっても止めない人間だからこそ…23億にまでなる」

裏を返せば、それ故に100億以上もの大金を溶かしたのだろう。

井川意高。
彼はまさにギャンブルの業火に焼かれた男だった。


熔ける 大王製紙前会長 井川意高の懺悔録 増補完全版 (幻冬舎文庫)


参考URL
「街録ch 元大王製紙会長 井川意高」

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