「シュヴァルの理想宮」は、フランスの田舎町ドローム県を舞台にした物語である。
フィンクションではなく、実在の人物を描いた作品だ。
寡黙な郵便配達員が、たったひとりで成し遂げた偉業。
不器用な男の信念と亡き娘への想いが、観る者の心を静かに揺さぶる。
ストーリー
無口で人付き合いが苦手なシュヴァルは、妻と息子の3人で暮らしていた。
ところが、幼いシリルを残して妻は他界する。
しかも、シュヴァルに子どもを育てるのは無理だと、親戚に一方的に息子を取り上げられ、離ればなれで暮らすことを余儀なくされた。
時が経ち、シュヴァルは配達途中で未亡人のフィロメーヌと出会った。
ふたりは結ばれ、娘アリスが誕生する。
シュヴァルは最愛の娘のため、ひとり宮殿を造り上げることを決意した。
シュヴァルの哀しみ
シュヴァルは最初の妻を亡くしたとき、涙ひとつ見せなかった。
そして、息子を連れ去られたときも全く抗弁せず、なすがままとなってしまう。
こうしてみると無機質で冷たい人間に思えるが、実は心の中では深い哀しみを抱えていた。
シュヴァルは感情表現が上手くできないだけなのだ。
そんなシュヴァルの良き理解者が、勤め先の郵便局長オーギュストである。
穏やかな相貌の彼は、シュヴァルを優しい眼差しで見守り続けていた。
辛い境遇のシュヴァルにとって、さぞや頼れる上司の存在は救いになったことだろう。
新しい家族
ひとり孤独な暮らしを続けるシュヴァルに運命の出会いが訪れる。
未亡人フィロメーヌと恋に落ちたのだ。
口下手で人と積極的に交流したがらない男が、なぜかフィロメーヌとは最初から普通に会話する。
とかく誤解されがちなシュヴァルを優しく包み込み、彼の心の美しさを理解する生涯の伴侶を得たのである。
そして、最愛の娘アリスを授かった。
当初は接し方が分からず、戸惑いを隠せなかったシュヴァル。
初めて赤ん坊の娘を抱いたとき、泣き止まず狼狽するシュヴァルの姿はとても微笑ましい。
だが、徐々にシュヴァルは育児にも参加する。
娘が可愛くて仕方がないのだ。
ある日、珍しい形の石に躓いたことをきっかけに、シュヴァルは宮殿造りを思い立つ。
それは、娘アリスのためだった。
日中は郵便配達員として村人に手紙を届けるため30㎞以上を歩き、夜は宮殿建築に勤しんだ。
昼も夜も10時間ずつ、各々の業務を全うした。
妻の反対に遭い、村人からも冷笑されながら、シュヴァルは雨の日も雪の日も黙々と作業に没頭する。
やがて、アリスは成長し、建築中の宮殿に顔を出すようになる。
そこはいつしか娘の遊び場となり、父と娘のかけがえのない思い出の時間となる。
夫と娘の仲睦まじい姿に、いつしか妻フィロメーヌも相好を崩すようになっていた。
シュヴァルとアリス。
この父と娘は固い絆で結ばれていた。
アリスは村の子どもたちから宮殿を揶揄されて、父に不満をぶつけることもあった。
しかし、アリスは自らのために宮殿造りに心血を注ぐ父が好きだった。
「みんなにからかわれても…大好きな場所なの。私のために建ててくれた世界一の宮殿よ」
深い余韻を残す親子の心の交流。
シュヴァルは設計士でもなければ、大工でもない。
建築の知識を持たないシュヴァルだが、木や風や鳥たちに励まされ、自然の営みを師と仰ぎ、宮殿を建てていく。
だからこそ、宮殿には彼にしか出せない素朴な味わいがあったのだ。
人生最大の悲劇
冬が近づき、アリスは咳が出始めた。
それは段々と酷くなり、病魔が少女を蝕んでいく。
父は娘の傍らに寄り添い、優しく看病する。
だが…。
アリスは黄泉に旅立った。
その瞬間、あの寡黙なシュヴァルが辺りを切り裂くように慟哭した。
妻も同じく号泣する。
こんな悲劇が起こるとは…。
アリスの葬儀に、幼き日別れた息子シリルが参列した。
愛娘を連れて…。
その赤子の名前は、なんとアリスだったのだ!
孫娘の存在と、娘と同じ名前に驚きを隠せないシュヴァル。
娘の死から立ち直れず宮殿造りは頓挫していたが、妻の叱咤激励で再び始動した。
なぜならば、娘がこよなく愛し、誰よりも完成を楽しみにしていた宮殿なのだから。
そのとき、すでにシュヴァルの髪には白いものが混じっていた。
老境に入っても夜を徹し、不退転の決意で邁進した。
3度目の別れ
シュヴァルに吉報が舞い込んだ。
息子シリルが洋裁店をオープンすることに伴い、近所に引っ越して来ることが決まったのだ。
シュヴァルは喜びを隠せない。
気がつくと、シリルはたびたび父の作業場を訪れるようになっていた。
シュヴァル、フィロメーヌ、シリルの3人はその場所に集い、思い思いに家族の団欒を噛みしめる。
そして、父と息子は宮殿を背景に写真を撮影した。
落ち着かない様子で、少し照れくさそうなシュヴァルは何ともユーモラスである。
最後は妻ともシャッターに納まり、宮殿には孫娘アリスも駆け付けた。
まさに家族の肖像である。
ところが、またもやシュヴァルに悲劇が襲う。
息子シリルが急死したのである。
あまりのショックに打ちひしがれるシュヴァル。
妻、娘、そして今度は息子…。
シュヴァルは後悔を吐露した。
「最後まで言えなかった。息子への気持ちを」
だが、きっと言葉には出さずとも、シリルには父の気持ちが伝わっていたと思うのだ。
理想宮の完成
そして、石の上にも3年ならぬ、着手から33年後ついに宮殿が完成する。
実に9000日、93000時間も費やした末の大願成就であった。
この間、常に心の中には娘アリスが共にいた。
そんなシュヴァルに、妻フィロメーヌとの別れの時がやって来た。
フィロメーヌは夫に呟いた。
「幸せだった」
「この世界は生きにくい。お前なしでは無理だった。私を見つけてくれて自信をくれたんだ。アリスを産み…絶望からも立ち直らせてくれた」
シュヴァルは万感の思いを込め、言葉を継ぐ。
「あの宮殿は…フィロメーヌ、お前のものでもある」
手を取り合うふたり。
そこには長年連れ添った夫婦の真実が存在した。
それから月日が流れ、宮殿には多くの人が集い踊っている。
孫娘アリスの披露宴が催されていたのである。
シュヴァルはその様子を眺めていた。
すると、花嫁衣装を纏った孫娘が最愛のアリスと重なった。
そして、シュヴァルはその姿を目に焼き付け、静かに目を閉じた。
所感
人との関わりを苦手とする主人公。
村人から誤解を受けるが、彼の人柄を理解する人々にも恵まれた。
郵便局長オーギュスト、妻フィロメーヌ、娘アリス、息子シリル…。
大切な出会いがあればこそ、シュヴァルは自分らしい人生を全うできたのだ。
それにしても、生涯で妻と子ども2人を喪う人生など、そうそうないだろう。
特に、子どもたちを亡くしたシュヴァルの絶望は、見ているこちらまで身を切られるような痛みを伴った。
娘の死に直面し、生きる希望を失くしたシュヴァルを立ち直らせた妻フィロメーヌの愛。
妻の今わの際に、シュヴァルが感謝するのも頷ける。
フィロメーヌの存在なくして、シュヴァルの人生は有り得なかった。
そして、短くも濃密な時間を過ごしたアリスとの幸福な日々。
人付き合いが苦手なシュヴァルは木々や風の音、鳥のさえずりに耳を澄まし生きてきた。
だからこそ、自然や生命の息吹に敬意を抱いていたのだろう。
自らの手で造り上げる宮殿に、自然の生命から学んだものを再現しようとしたのではないか。
それはまさしく、シュヴァルにとって理想を具現化した至高のものだったに違いない。
そうした素晴らしきものを最愛の娘に贈りたかったからこそ、人生をかけて完成させたのだろう。
最愛の娘と同じ名を持つ、孫娘の披露宴でエンディングを迎える物語。
自らが心血を注いで築いた理想宮で、フィアンセと踊る孫娘。
その姿が娘と重なった瞬間、自らのもとに歩み寄って来る。
そして、アリスは語りかけてきた。
「パパ 一緒に踊ろう」
「今行く」
そう答えると、シュヴァルは静かに目を瞑る。
シュヴァルの穏やかな相貌が私の心に刻まれる。
人生をやり切った、なに一つ悔いのない表情に見えたのだ。
それはそうだろう。
夢にまで見た、最愛の娘とやっと再会できたのだから。
その光景はまるで、長い旅路を終えた父を娘が迎えに来たようにも思えた。
まとめ
個人的に印象深いシーンがある。
ある晩、妻フィロメーヌは建築中の宮殿に赴いた。
そこには作業を終え、眠りにつく夫がいる。
すると、フィロメーヌはシュヴァルの隣で添い寝した。
娘の死を共に乗り越えた夫婦の絆に、思わず胸を打たれた。
自分の気持ちを表現することが苦手なシュヴァルが人生で初めて自己主張をし、始めた宮殿建築。
そこには亡き娘アリスだけでなく、妻の願いも込められている。
それは、まさしく家族の想いが詰まった「シュヴァルの理想宮」だった。
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