「めぞん一刻」音無老人 「線は、僕を描く」篠田湖山 ~漫画史に残る好々爺~

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私は、これまで多くの漫画を読んできた。
中でも、「めぞん一刻」と「線は、僕を描く」は心に残る名作だ。

もちろん、ストーリーや世界観も良いのだが、主人公を筆頭に登場人物が魅力的なのである。
両作品には一つ共通することがあるのだが、お分かりだろうか。
それは、素晴らしい人格を備えた好々爺が登場するのである。

「めぞん一刻」においてはヒロイン・音無響子の義父である音無老人が、「線は、僕を描く」では水墨画の巨匠・篠田湖山が作品に奥行きを与えた。

音無老人

定命の者である我々人間は、人生の中で必ず死に遭遇する。
友人・恋人・親戚・両親…数えだしたらキリがない。
そんな数多ある別離の中で、最も辛いものとはなんだろう。
それは親が子を看取るという、逆縁ではないか。

音無老人は突如、息子を喪った。
しかも、新婚ホヤホヤで前途洋々とした、まだ年若い息子をだ…。
にもかかわらず、自らの心の痛手はおくびにも出さず、いつも若くして未亡人になった響子さんを気にかけた。

「めぞん一刻」には多士済々のキャラが揃い、ユニークな人材の宝庫だ。
四谷さん、一の瀬夫人、六本木朱美など…。
そんな登場人物の中で、音無老人は傑出した人格者なのである。

1. 墓前にて

それは響子さん一家とともに、息子・惣一郎の墓参りに行ったときだった。
線香を上げ終えると、音無老人は切り出す。

「このままじゃいけないんだよね、やっぱり。響子さんもまだ若いんだから、そろそろ音無家から籍を抜いてやり直した方が…」

「そんなこと!何をやり直すっていうんです!?惣一郎さんを忘れろってことですか」

気色ばむ響子さんに、音無老人は息子の墓前を見つめながらこう言った。

「ねえ、響子さん…昔は夫が死ぬとね、墓に赤い文字で妻の名前を書き入れたんだよ。未亡人…まだ死んでない妻ってことだよね。
でも、違うだろ?死んでないのじゃない。生きているんだ!忘れなくちゃいけないよ…惣一郎のことは…」

これは息子・惣一郎を亡くして、ちょうど2年目のことである。
私は不覚にも、涙が零れ落ちそうになった。
本作の前半は基本的にコメディ満載だったこともあり、いきなりこんな心震わす展開になるとは思っていなかったのだ。

響子さんと音無老人の関係はとても良好だ。
というより、音無家の人々はみな人が好く、響子さんと仲が良い。
したがって、本当はいつまでも縁を繋いでいたいだろう。
だが、息子への想いを引きずる響子さんを思えばこそ、心配し忠言したのである。




2. 結婚式での祝辞

もうひとつ、心に沁みたことがある。
五代君との結婚式で、音無老人が響子さんにかけた言葉だ。

式直前、控室を訪れた音無老人に、響子さんは万感の思いを胸に感謝した。

「お義父(とう)さま…長い間…本当にありがとうございました」

音無老人は響子さんの手を取って祝福する。

「うん…こういう日が来るのを待っとったよ…うんと幸せになりなさい。今までの分もね…」

そして、優しく語りかけた。

「あんたは、この日のために生まれて来たんだよ…響子さん」

「お義父さま…」

涙腺が崩壊する響子さん。
いや、響子さんならずとも双眸を濡らすだろう。

二十歳そこそこで惣一郎と結婚し、幸せの絶頂にいた響子さん。
それが夫の急逝で、半年でピリウドが打たれた。
そんな響子さんを不憫に思い続けた、音無老人ならではの祝辞だった。

それにしても、赤の他人との再婚に「あんたは、この日のために生まれて来たんだよ」と言える音無老人に感銘を受けずにはいられない。
たしかに、五代君の人柄はよく知っており、だから安心できるのだろう。
しかし、「息子が健在ならば…」という忸怩たる思いがよぎらないのだろうか。

音無老人の素晴らしい人間性、そして何よりも、響子さんの人生を本当に大切に考えていればこそ、心のこもった祝福をできたに違いない。

「めぞん一刻」が誇る“良心”、それが音無老人なのである。


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篠田湖山

1. 教わったもの

両親を亡くし、孤独を纏う青山霜介(そうすけ)が篠田湖山に教わったもの。
それは、決して絵を描くことだけではなかった。

「分らないものが分かってくるから面白いんだ。分からないって素敵なことだよ」

篠田湖山は水墨初心者の霜介に、そう言葉をかけた。
穏やかな笑顔を湛える相貌は、まさに好々爺といった風情だ。

そして、弟子となった霜介は、湖山の家を訪れる。
一日中、水墨画を夢中になって描いた霜介に、師は優しく言った。

「君の寂しさが少しでも癒えたなら良かった」

あるとき、湖山は霜介をはじめとする弟子たちに、水墨の要諦である命を描くために必要なことを伝えた。

「水墨とは森羅万象を描く絵画だ。森羅万象とは宇宙のこと。宇宙とは現象のこと。現象とは今あるこの世界のありのままの現実のこと」

そして、言葉を継ぐ。

「だがね、現象とは外側にしかないものなのか?心の内側に宇宙はないのか?自分の心の内側を見ろ」

マスターキートンの名作「喜びの壁」に、導師ライアンが語った一説がある。
彼は満点の星空を見上げ、こう言った。

「人間はこの宇宙よりも、ずっと広大な宇宙を持っている」

篠田湖山は、ライアン師が神への信仰に生涯を捧げ、ようやく悟った人間の理を理解していたのである。

その瞬間、霜介は気がついた。
2年前、交通事故で両親を喪って以来、真っ白な場所に立ち止まり、悲しみに暮れていた。
でも、両親と幸せな日々を過ごした、優しい思い出もあったのだ。
悲しみのあまり、その事実に蓋をして、目を背けていたのだと。

筆を持ち、心の内側を外へと解き放つ。
それこそが水墨の本質であり、技術はあくまでもその手段に過ぎないと。
そして、心の内側を描けたとき、他人の心と通じ合えるのだと。
霜介の心は孤独から解き放たれ、今軽やかに動き出す。

月日が流れ、霜介は師の前で蘭を描いた。
完成した水墨画を見て、篠田湖山は満足そうな表情を浮かべている。

「素晴らしい…何も言うことがないよ。よくぞ、ここまで蘭を極めた」

そして、御仏のような慈愛を湛え、愛弟子に呟いた。

「いい表情(かお)になった」

その言葉に、霜介は心から思った。

「先生がいたから…先生が僕を見つけてくれたから…」

霜介は思わず、師の前で頭を垂れ、深い感謝の意を表した。

2. 命を描く

篠田湖山は言葉だけでなく、自ら描き、弟子たちに水墨の真髄を示していく。

霜介が通う大学の文化祭に、ふらりと現れる湖山。
霜介の所属する水墨画サークルの作品を見るためである。
弟子の作品を観た湖山は、確かな成長に目を細めた。

すると、上機嫌の彼は急遽、水墨画の揮毫会を催すことを決める。
水墨画の巨匠・篠田湖山の実演を一目見ようと、大勢の人々が押し寄せた。

その様子を、霜介は遠くから眺めていた。
だが、不思議と湖山の息遣いや表情を手に取るように感じられるではないか。

そして、奇跡の時が訪れる。
大パネルに貼られた水墨画用紙。
その前に自然体で立つ篠田湖山は、今まさに真理の中に存在した。
まず葉を描く。
徐々に輪郭が現れ、葡萄の形になっていく。
蔓が伸び、実に繋がっていく。
まるで、点が線でつながっていくようだ。

そのとき、篠田湖山は水墨の世界に身を投じながら、しみじみと感慨に耽っていた。

「ああ…私は素晴らしい弟子たちに恵まれた。今日もまた、たくさんの出会いに恵まれた。私はなんて幸せな絵描きなのだろう。何年、何十年と絵を描き続けることができた。ひとりぼっちだった私に師は筆を与えてくれた。師から私へ、私から君たちへ…命はつながっているんだよ…命はつながっていくんだよ」

描き終えた瞬間、万雷の拍手が鳴り響く。
そのとき、会場にいた人々は一枚の絵から同じものを感じていた。
そして、誰もが湖山の描く線で結ばれていた。

その光景に霜介は確信する。
「水墨は決して孤独な絵画ではない」ことを。

私は再び、マスターキートンの「喜びの壁」を想起する。
導師ライアンが語った「人間は一生、自分という宇宙を出られはしない」という真理。
しかし、長い人生の中でほんの束の間訪れる奇跡のとき。
その瞬間、人は自分という宇宙を抜け出して、同じことを感じることができるのだ。

篠田湖山が描く水墨の世界。
それは導師ライアンが語った、人間の真理をも超越する奇跡だった。


線は、僕を描く (原作小説)

3. 真意

水墨画のビッグタイトル「湖山賞」を目指し、日々精進を重ねる霜介に青天の霹靂ともいえる出来事が起こった。
篠田湖山が倒れたのだ。
入院の一報を受けた霜介は、矢も盾もたまらず駆けつける。

幸いなことに、大事には至らなかった。
ベッドに、いつもと変わらぬ姿で佇む湖山。
ホッとする霜介に微笑みながら、絵の進捗具合を尋ねる。
だが、霜介は壁に突き当たっており、浮かぬ表情を浮かべた。
その様子に、師は水墨の真理を説く。

「ありのままに生きようとする命。それに深く頭を垂れて教えを請いなさい。そして、命を見なさい。青山君、君なら美の祖型…描くべき本当の美しさが見えるはずだよ」

「はい!」

晴れやかに答える霜介に、篠田湖山は真意を打ち明けた。

「タネ明かしをしようか…私は君が優れた水墨画家になれるかどうかは、どうだっていいんだ。
私の時代はね、青春は全て戦争だった。夢を失くし、家族を失くし、帰る家も行くあてもなく、どうしようもなく独りぼっちだった。
初めて会ったときのことを覚えているかい?あの展覧会で、私は孤独だったかつての自分と出会った…それが君だ。行かせてはダメだ。この青年をこのまま行かせては…」

そして、真摯に愛弟子に語りかける。

「師匠のことを思い出したんだ。私に水墨画を与えてくれ、私を救ってくれた師匠を。勝負や何かはどうだっていい。私はただ、師匠が私に与えたくれたものを君にも渡したかった。君に生きる意味を見つけて欲しかったんだ。
受け取ってくれてありがとう青山君。私の想いを…水墨を受け取ってくれて。水墨を好きになってくれてありがとう」

霜介の胸に、師との出会いから今日までがあふれ出して来た。

「僕が先生に教わったことは絵を描くことだけじゃない。先生は生きることを教えてくれていた」

そして、両親を亡くしてから初めて、青山霜介は泣いていた。

篠田湖山の真意を知り、私も涙が止まらない。
海よりも深く、空よりも広い心。
技術だけでなく、先人から受け取った心を愛弟子に継承していく。

「親を喪い、心が死んだままの若者に、生きる喜びを恢復して欲しい」

そんな師の想いが伝わればこそ、青山霜介は心の蓋が取れ、涙を流すことができたに違いない。


線は、僕を描く(1) (週刊少年マガジンコミックス)

まとめ

人の一生。
それは、出逢いと別れが織り成す物語といえるだろう。
そして、喜びだけでなく、悲しみの陰影も増していく。

年輪を重ね、濃密な人生経験をその身に宿す好々爺ふたり。
そんな音無老人と篠田湖山なればこそ、彼らの紡ぐ言葉はかくも我々の心に響くのだ。

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