「マスターキートン」レビュー第13弾『靴とバイオリン』。
本作は靴メーカーの社長と、ストリートでスリを生業とする少女の物語である。
本来、交わることのないはずの二人による刹那の邂逅と別離。
その読後感は、不朽の名作「ローマ休日」のラストシーンを思わせる。
ストーリー
蝶ネクタイに吊りズボン、そして口ひげを生やしたレイモンドは、ストーリーでバイオリンを弾いていた。
どこか品を感じさせる彼はいかにも好々爺然としており、雑踏での弾き語りはあまりにも似つかわしくない。
ひとりの少女がレイモンドの前を風のように駆け抜け、その後を人相の悪い刑事が追いかけた。
ようやく刑事は少女に追いつき、財布を返すように迫る。
だが、ボディチェックをしてもどこにも見当たらない。
それもそのはず、少女は逃走中、投げ銭入れ用に置いていたバイオリンケースに、財布を放り込んでいたのである。
その少女ビッキーは一目で、レイモンドがストリートの新入りだと見抜いた。
そして、レイモンドにストリートの心得を指南していくうち、ふたりは固い絆で結ばれていくのであった。
一瞬の邂逅
実は、レイモンドは靴会社「ヘルメス」の社長だった。
だが、40年以上靴を売り続けた彼は「引退してからでは遅すぎる」という思いに駆られ、行動に打って出た。
「いつか街角でバイオリンを弾いてみたい」というかねてからの夢を実現するため、会社から逃げ出しストリートデビューを果たしたのである。
そんな折、出会った少女がスリの常習犯ビッキーだったのだ。
ビッキーには「金持ちしか狙わない」という信念があった。
さらに言うならば、ビッキーは世の中を信じていなかった。
「レイモンドさん…ストリートは戦場なのよ。どんな時も人を信じてはいけないわ。世の中、信用できない奴ばかり…。だから、私は眠るときだって神経をとがらせているんだから」
ビッキーが誰も信用しないのには理由があった。
14歳のとき、クスリを買う金欲しさに、実の母親に売られそうになったのだ。
必死に男から逃げ出したビッキーは、その日以来母親と会っていなかった。
レイモンドが大切なバイオリンを少年に盗まれそうになったとき、助けたのもビッキーだった。
そうした縁もあり、ふたりは一緒にフィッシュ&チップスを食べ歩くなど、交流を深めていく。
普段はファーストフードなど食べないレイモンドだが、その美味しさに顔が綻んだ。
人柄が滲み出る柔和な表情に、いつもはクールな眼差しを崩さないビッキーも笑顔が弾けた。
そんなふたりを、尾行する人影がひとり…。
会社からレイモンドを連れ戻すよう依頼されたキートンだった。
もちろん、ストリート暮らしが長いビッキーはお見通しである。
ストリートを熟知するビッキーはレイモンドを巧みに誘導しながら、あの“マスター”キートンをまいてしまうではないか。
だが、その逃走劇の途中でビッキーは、相棒ともいうべき大切にしていた靴を無くしてしまう。
実は、彼女が愛用していた「ヘルメス印Jタイプ」のスニーカーは、レイモンドが社長を務める会社の製品だったのである。
出会った当初、レイモンドは一介の靴屋を名乗り、「Jタイプ」への知見を披露したことも二人が意気投合するきっかけとなった。
だが、生産コストが合わず製造中止になっていたことに加え、とても人気があったため、靴屋を回るも売り切れていた。
夜の帳が下りる頃、ビッキーはレイモンドをお気に入りの場所に連れて来る。
その場所はロンドンの夜景を一望できる公園で、向こう岸で輝く街の灯が水面に映り、まるで銀河の中にいるような幻想的な世界にふたりを誘った。
レイモンドは日中のことを気に病み、ビッキーに言った。
「明日の朝、“ヘルメス印Jタイプ”のスニーカーを一緒に探しに行こう。ロンドン中の靴屋を探せば…約束だよ、明日の朝ここで…」
すると、レイモンドの肩にもたれかかって、ビッキーは自らの悲しい過去を告白する。
そして、そのまま安心しきったように眠りについた。
「眠るときでも神経をとがらせているんじゃないのかい…今夜はゆっくりおやすみ」
レイモンドは愛おしそうに呟いた。
別離
翌朝、レイモンドは公園に向かった。
だが、どこにもビッキーの姿がない。
キートンに見つかったレイモンドは、「君に連れ戻される前に、やらなければならないことがある」と、しばしの猶予を求めた。
もちろん、“心優しき人生の達人”は快諾し、一緒にビッキーを探す。
ところが、その過程でビッキーが攫われたことが判明する。
犯人は以前からビッキーにしつこく付きまとっていた、ギャングのマービンだった。
女を攫う際のアジトである倉庫を突き止め、様子を窺うキートンとレイモンド。
そこに置いてあった尿素肥料に希塩酸のトイレ用洗剤を混ぜ、強烈な匂いを放つ塩化アンモニウムを煙幕代わりに発生させ、見事にビッキー救出劇を成し遂げたキートン達。
しかし、その際、レイモンドはビッキーを助けるためにバイオリンを投げつけ、壊してしまった。
バイオリンを気にするビッキーに、レイモンドは言った。
「いいんだ。元の商売に戻ることにしたよ。ありがとう。君のおかげで楽しかった」
そして、レイモンドは自らの素性を告げずに去ってしまう。
時が経ち、ビッキーは街の靴屋を訪ねていた。
レイモンドを探すためである。
その傍らにはバイオリンが提げられていた。
恩人が見つからず意気消沈していると、少年が近づいて来て「お姉ちゃん。向こうで、おじさんが渡せって」と箱を渡される。
箱を開けると、なんと!「ヘルメスJタイプ」のスニーカーが手紙と一緒に入っていた!
手紙には、レイモンドの感謝の想いが綴られていた。
「親愛なるビッキーへ。これを履いて、また思いっきり走ってください。でも、あんな危ない仕事には使わないでください。私はいつも君を見守っています。いつかまた…あの美味しいフィッシュ&チップスを食べる日を夢見つつ…」
ビッキーはバイオリンを片手に、矢も楯もたまらず走り出す。
「レイモンド!まともに働いてバイオリン買ったんだ!受け取ってよ、レイモンド!!」
その姿を切なげな表情で見守るキートン。
一方、レイモンドは“Jタイプ”再生産決定の報告を受けていた。
「あのスニーカーは利益率は低いかもしれないが、品質は落とさないように頼むよ。あの靴を心から愛してくれている人がいるんだからね」
ビッキーとの邂逅に思いを馳せるレイモンドだった…。
所感
実の母親に裏切られ、心を閉ざした孤高の少女ビッキー。
美しい彼女は地元ギャングの求愛や、悪徳刑事の嫌がらせをあしらいながら、逞しく生きていた。
そんな彼女が出会ったのが、およそ“生き馬の目を抜く”ストリートの掟とはかけ離れた、善良を絵に描いた風貌のレイモンドだった。
実際、レイモンドは誠実で心優しい人物だった。
だからこそ、人を信じないはずのビッキーが心を開いていく。
あのビッキーが出自を話しながら、レイモンドの肩に身を寄せる場面。
街の灯が水面に映し出される、まるで夢の世界のような風景も相まって、とても感動的で温かい気持ちにさせられる。
生まれも育ちも、年代さえも異なるふたり。
だが、そのふたりに共通するもの、それが“ヘルメス印Jタイプ”のスニーカーだった。
レイモンドは自社製品をこれほどまでに愛用してくれる姿に、心から嬉しかったに違いない。
そして、レイモンドの想いが通じ、ビッキーはスリ稼業から足を洗う。
レイモンドとの出会いが少女に人を信じる心を芽生えさ、日の当たる道に導いたのである。
そんな心通じ合うふたりに訪れる別離。
このエンディングに、オードリー・ヘップバーンの「ローマ休日」を思い出す。
身分や立場の違いにより、避けることのできない別れ。
おそらく、レイモンドとビッキーも二度と会うことは叶わないのかもしれない。
この残酷な事実が我々により一層の切なさをもたらすのだろう。
それにしてもラストシーン、レイモンドの万感の思いが詰まった言葉が身に沁みた。
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