昨今も、独裁者プーチンの暴走で疲弊するロシア。
実は、約30年前も混乱に見舞われた。
ゴルバチョフ書記長のペレストロイカ政策やソ連経済の悪化に伴い、加速した冷戦の終結。
それは、日本の元号が平成となった年に起き、ベルリンの壁崩壊が象徴的出来事として世界に発信される。
以来、ソビエト連邦は崩壊の一途をたどり、激しいインフレも相まって国民生活は逼迫した。
そんな激動の時代を背景に、共に誓いを立てた3人の少年が大人になり、悲劇を迎える物語が『赤い風』である。
「マスターキートン」の中にあって、最も哀しく、やり切れない思いが募るストーリー。
そんな『赤い風』を紹介する。
ストーリー
モスクワにあるレーニン記念第117学校の教育実習生として、ナタリアはやって来た。
彼女は美しく聡明で、とても素敵な女性だった。
そんなナタリアに想いを寄せる少年達。
ラージン、ニコライ、ミハイルの3人組である。
彼らは、同じ学び舎でかけがえのない時を過ごす親友だった。
彼女に夢中になった3人は、時を同じくして恋文を送る。
放課後、ナタリア先生は3人を教室に呼ぶと、優しく語りかけた。
「素敵なお手紙でした。先生とても嬉しかった。でも、みなさんはまだまだ勉強しなければならないことが沢山あります。だから、先生に約束してほしいの。立派な男の人になってください」
その言葉を聞いた3人は誓う。
「たとえ離れ離れになって、俺達はお互いに裏切らない。嘘をつかない。逃げ出さない」
時が経ち、ロシアの役人となったラージンは公務でイギリスを訪れる。
ところが、次々とボディガード達が殺害されていった…。
赤い風
3人は大人になり、それぞれが別の道を歩んでいた。
ラージンは対外経済関係省に勤め、陽気な性格のニコライは陸軍に入り、物静かだが意志の強いミハイルはエンジニアの道に進む。
だが、成人した後も変わらぬ友情で結ばれ、3つの誓いを永遠のものとした。
その後、ミハイルは任務中アフガニスタンで地雷を踏み、ニコライは自ら命を絶ち、泉下の人となる。
ひとり残されたラージンは“立派な男”になるため、新しい体制で祖国を立て直すことに尽力していた。
その矢先、トラブルに巻き込まれたのである。
ラージンは、旧体制の復活を目論む保守強硬派が放った刺客の仕業だと考えていた。
次は自分の番だと直感した彼は、キートンの鋭い洞察力を目の当たりにし、護衛を依頼する。
そんな中、腕利きのボディガードを苦も無く葬る腕前と犯行の手口から、KGB最強の工作員“クラスヌイベーチェル”の犯行だと判明する。
クラスヌイベーチェルとはロシア語で“赤い風”を意味した。
公務先のパーティーで、悲鳴を上げながらラージンは卒倒する。
ハンカチに、もはや自分しか知らないはずの言葉が書かれていたからだ。
「俺達は裏切らない。嘘をつかない。逃げ出さない」
この言葉を認めた者…。
それは10年前に地雷を踏み死んだはずの…共に“3つの誓い”を立てたミハイルだった!
赤い風として工作活動をするため、過去を消し去ったのである。
赤き哀しみ
赤い風ことミハイルの幻影に怯え、取り乱すラージンを落ち着かせるキートン。
ラージンがシャワーを浴びるわずかな間隙を縫って、赤い風はキートンを気絶させ監禁する。
元SAS(英国特殊空挺部隊)のエリート軍人だったキートンに、何もさせない赤い風の手練れぶり。
意識が戻ったキートンは、赤い風に説得を試みる。
だが、赤い風は「君はお人好しだな。ニコライはラージンに殺されたのだ」と事の真相を語ると、その場を立ち去った。
赤い風は恐るべき殺し屋だが、無駄な殺しは決してしない。
ボディガードを殺したのは、共に3つの誓いを立てたニコライに手をかけたからだった。
音もなくラージンに忍び寄り、審判を下すその刹那、縄をほどき駆け付けたキートンに間一髪止められる。
「ミハイルさん、あなた達はナタリア先生の名のもとに3つの誓いを立てた。あなたのしようとしていることは、ナタリア先生の望むことでしょうか」
「ナタリア先生か…彼女は死んだよ。市街戦の流れ弾に当たって…ラージン、お前の横流しした武器でな!キートン、君には関係ないことだ。これは我々の問題だ」
そう言い放つミハイルに、なおも立ちはだかるキートン。
「そうはいきません。私はラージンさんに護衛を頼まれているんです」
「本当に人のいい奴だ。だが、私には勝てない」
一瞬の攻防でキートンを退けたミハイルは、ついにラージンを追い詰める。
「過去を消し、KGBの工作員として生きることが、どんなことかお前には分かるまい。私には親もなく妻もなく、孤独だけがあった。しかし、私にはあの3つの誓いがあった。あの3つの誓いを守り続けることで、私は一人ではなかったのだ。常にニコライ、ラージン、お前達と共に私はいた。なのに、お前は…」
だが、ラージンの口から語られる驚愕の事実。
「すまない、ミハイル…だが、裏切ったのはニコライだ。軍にいたあいつは私に武器の横流しをもちかけ、ビジネスが軌道に乗ると儲けを独占しようと私の命を狙った。だから、私は…」
茫然自失となるミハイル。
そして、“3つの誓い”とともに、少年時代の思い出が甦る。
その瞬間、ラージンの凶刃がミハイルを貫いた。
「すまん…すまん、ミハイル…私は祖国のために、生きなければならない…」
二人は揉み合うと、ラージンは階段から転落し絶命した。
深い哀しみに暮れるミハイル。
「もう、お前を殺す気などなかったのに…ナタリア先生…俺達、3つの誓いを守れなかったよ」
所感
赤い風の恐ろしさを教えてくれた顔馴染みの大尉から、ボディガードの任を外れるよう諭されるキートン。
だが、“心優しき人生の達人”は己の危険も何のその、最強のテロリストに立ち向かう。
私は、こんなキートンのお人よしのところが好きなのだ。
そもそもが、ラージンとは縁もゆかりもない。
赤の他人の命を守るため、己の命をかける勇気に感銘を受けずにはいられない。
そして、作中に出てくる3人の物語。
その読後感は、あまりに切ない。
純粋なる心で“3つの誓い”を立てる少年達。
大人になり金に目がくらみ、醜い欲望に染まり穢れていく魂。
この鮮やかなコントラストと、その哀しい結末。
しかし、“赤い風”ミハイルだけが少年時代の誓いを忘れずに純粋な魂を持ち続けていたことが、我々に深い余韻を残すのであろう。
本来、正義の側にいるはずの役人と軍人が卑劣な行為に手を染めて、非合法に身を投じる工作員が己の正義を全うするという事実。
現実世界でも散見されているとはいえ、なんという皮肉なのだろう。
人は齢を重ねていくにつれ、様々な垢が付き汚れていく。
一方、ミハイルは、昔から強い意志と忍耐力を持っていた。
そうした天性の気質に加え、諜報と殺戮が支配する孤独な世界の住人だからこそ、最も幸福だった少年時代の誓いを忘れなかったに違いない。
ひとつ思うことがある。
もし、ナタリア先生が生きていたならば、3人を見てどう思ったのだろうか…。
ラージンとニコライは、彼女が望む“立派な男の人”にならなかったことは明らかだ。
しかし、ミハイルは…。
暗殺者として数多の命を奪ってきたが、無益な殺生をしないミハイルは真の意味では穢れていないようにも感じる。
不見識な私には、一生分かるはずもない。
祖国が激動に見舞われ、運命に翻弄された3人の親友達。
「ナタリア先生…俺達、3つの誓いを守れなかったよ」
日の当たらない道を歩むとも、ただひとり少年時代の誓いを守った“赤い風”ミハイルの今際の言葉であった。
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